、第二次世界大戦における、西部戦線において1944年12月から1945年1月の間、アルデンヌで行われたナチス・ドイツのドイツ国防軍(以下ドイツ軍)とアメリカ軍を主体とする連合軍との戦闘の名称。
ノルマンディ上陸作戦からの戦線停滞
1944年6月6日から始まったノルマンディー上陸作戦以降アメリカ・イギリス軍を主体とする連合軍(以下連合軍)はフランスで進撃を続け、8月25日にはパリの解放が実現した。その後も連合軍はドイツ軍を追撃したものの、予想以上に早い連合軍の進撃は補給線の延長を招いたため連合軍の進撃は停滞し、戦線は膠着状態にあった。
反対の中で強行された作戦
連合軍に打撃を与えて講和に持ち込んでソ連との対決に全力を注ぐことを方針として定めた。軍部首脳のルントシュテットやモーデルは、この計画は無謀だとして反対した。それまで備蓄していた予備燃料400万ガロン(1500万リットル)を切り崩す許可をヒトラーが出した。しかしそれでも燃料は不足していた。作戦には1944年に戦中最大に達したドイツの兵器生産のストックのかなりの部分が投入され、精強な部隊での作戦でもあり大きな期待がかけられていた。しかし攻撃を予定のまま続けるには作戦の途中で連合軍の補給拠点を奪取する必要があるなど、最初からかなり危うい作戦だった。
またアルデンヌ地方は深い森林と山岳地帯であったため、装甲部隊がすんなりと通れるとは思われず、その地区の防衛には脆弱な部隊しか配置していなかった。いくらドイツ軍にはもはや攻勢に出る余力がないと思っていたにせよ、連合軍は歴史から(というよりは数年前の失敗から)全く学んでいなかったということになる。
ドイツ軍がアルデンヌ地方でアメリカ軍に攻撃
1944年12月16日、連合軍の重要な兵站基地であったアントワープ占領を目標として、ドイツ軍の3個軍がアルデンヌ地方においてアメリカ軍に攻撃をかけた。アメリカ軍はアルデンヌでのドイツ軍の攻撃を予期しなかったため、アルデンヌには実戦経験が皆無か、以前の戦闘で消耗していた師団ばかりを配置していた。その上悪天候により航空支援も受けられず、緒戦では多くの戦線でドイツ軍の突破を許した。最前線で守っていた小隊は、粘りながらも負傷者が続出して弾も尽きて、ドイツ軍に降伏以外の選択肢はありませんでした。
突然の反撃に不意を突かれたトロイ・H・ミドルトン(英語版)将軍の第8軍団(英語版)は、クレルヴォー(英語版)、ホージンゲン(ドイツ語版)など一部拠点で頑強に抵抗したが、旅団、連隊、大隊など高級部隊長の戦死や負傷が続出し、壊滅するか、捕虜となるか、包囲されるかという窮状となった。
ドイツ軍の補給がうまくいかず停滞
ドイツ軍の補給線が伸びて行く一方で、アメリカ軍は増援部隊の到着により防衛線を着々と固めていき、12月25日には最大でもミューズ川手前でドイツ軍の攻勢は阻止され、戦線は「バルジ」(突出部の意)を形成していた。翌年の1945年にはアメリカ軍による「バルジ」への反撃が開始され、ドイツ軍の作戦は失敗し、ドイツ軍は貴重な戦力や物資を余計に消耗することとなった。
実際は連合軍の反応はヒトラーの予想を遥かに上回るほど早く、またアイゼンハワーの決断も早かった。彼はどの首脳と相談することもなく部隊の配置転換を断行し、当時フランスで再建中だった第101空挺師団をバストーニュに急派した。ヒトラーの思惑は初日から砕かれてしまった。
バジルの戦いの総括
もしこの作戦でドイツ軍が大勝利を収めたとしても、西部戦線を維持するためにはある程度の兵力を留める必要があり、東部戦線を巻き返すだけの兵力を抽出するのはこの時点ではまず不可能であったと考えられる。結局のところヒトラーは「出なくても良い、勝てたとしてもあまり効果がなさそうな賭けに出て、しかも負けた」ということになる。