朝鮮戦争がヤバかった!北朝鮮が韓国に攻め入った1950年6月


1950年(第二次世界大戦終結後)に起こった朝鮮戦争では、韓国・北朝鮮の合わせて400万人もの死者を出す悲惨な戦争となりました。国民の5人に1人が死んで、多くの都市が焼け野原となりました。朝鮮戦争の犠牲者の数は、南北朝鮮合わせて400万人、総人口の20%にあたる。つまり、国民の5人に1人が戦死したとされています。

朝鮮半島は、1945年2月に開催されたヤルタ会談の『極東秘密協定』において、米英中ソ四国による朝鮮の信託統治が合意されていました。しかし、第二次世界大戦中1945年8月8日よりソ連対日参戦により満洲国に侵攻したソ連軍(赤軍)は、8月13日に当時日本領だった朝鮮の清津市に上陸してきます。アメリカ軍は、ソ連軍との直接交戦を避ける為に、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案して、北緯38度線を境にして、南北で分断されてしまいました。

1948年8月15日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言しました。金日成はこれに対抗して9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。米ソの対立を背景に1948年8月15日に建国された大韓民国ですが、アメリカに主導されて建国された大韓民国は、建国されて以降も混乱した状態にありました。また、1949年12月24日に韓国軍が「聞慶虐殺事件」を引き起こして住民88人を虐殺する事件も起こっています。

不安定だった大韓民国

当時の大韓民国は、1946年5月に南朝鮮全土にコレラが流行し、慶尚北道だけで、4000人が死亡するなど食糧事情が悪くて不安定な状況にありました。大邱(テグ)10月事件と呼ばれる1946年10月1日にアメリカ軍占領下の南朝鮮慶尚北道大邱でアメリカ軍の軍政に抗議した市民を南朝鮮警察が銃殺したことに端を発し、南朝鮮全土で230万人が蜂起して、136名が犠牲となった事件も発生しています。事件後には、南朝鮮人のアメリカ軍への支持が失われ、共産主義団体への支持が強まることになりました。

1950年6月25日早朝、南北朝鮮を分かつ北緯38度線を超えて北朝鮮が突然に南に攻めて入ってくる事になりました。この時の韓国軍の装備と言えば、米韓軍事協定で重装備が全くない状況にあり、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機(練習機)のみという戦うような装備を有していませんでした。1950年6月27日、李承晩は南朝鮮労働党関係者の処刑を命じ、保導連盟事件が発生、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に上る民間人が裁判なしで虐殺されています。

アメリカ軍が撮影したとされる虐殺現場

撤退を続けた韓国軍

防衛ラインは次々と突破され、韓国軍はひたすら敗走を続けた。このようなワンサイドな戦いとなったのは奇襲によるが、軍事力でも圧倒的な差があった。韓国軍は、総兵力10万、戦車ゼロ、大砲91門。一方の北朝鮮軍は、総兵力20万、戦車240両、大砲552門と圧倒していました。当時は、北朝鮮軍がソ連製のT34という強力な戦車を使っており、韓国軍の火力でこのT34に対抗するのは不可能でした。

6月27日、アメリカ大統領トルーマンが主導し、国連安保理が開催され、北朝鮮非難決議が採択されました。6月28日に人々で溢れた橋が爆破されて、数多くの人が犠牲となりました。アメリカ軍は、北朝鮮軍を攻撃し始めました。地上部隊としては、とりあえずスミス中佐が派遣されて、北朝鮮が占拠したソウル南部から攻撃を開始しましたが、相手の兵力が膨大で地上戦は失敗に終わりました。7月7日にアメリカをはじめとした16カ国が参加して、総司令官にマッカーサーを据えて、国連軍が編成されました。日本にいたマッカーサーは、米トルーマン大統領に援軍を派遣する事を要請しました。

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