第二次世界大戦の「ノルマンディ上陸作戦」(史上最大の作戦)


 第二次世界大戦の転機ともなった(ドイツ軍の劣勢が確実になった)ノルマンディ上陸作戦は、「史上最大の作戦」として知られています。その規模は途方もないような規模であり、イギリスのほぼ全ての艦船、アメリカの国力をあげての上陸作戦となりました。ドイツ軍が侵攻して支配していたフランスを奪回して、ドイツのベルリンに迫るという作戦でした。数十万人規模の兵士が動因された「史上最大の作戦」と言われており、映画化もされています。


ノルマンディー上陸作戦は第2次世界大戦中の1944年6月6日、アメリカ軍を主体とする連合軍が、ナチスドイツに占領されていたフランス北西部のノルマンディーの海岸から上陸したものです。パ・ド・カレーがイギリス本土から距離的に最短であり上陸地点として最適だったが、当然の事ながらドイツ側も連合軍によるパ・ド・カレーへの上陸を警戒しており、その防御が強力だったため、連合軍は上陸地点にノルマンディーを選択した。


『大西洋の壁(Atlantic Wall)』と呼ばれた大西洋沿岸の防衛状態は、ヒトラーが計画を強力に推進したにも関わらず進行していなかった。ヒトラーが連合軍が上陸する地点だと固執したため最も構築が進んでいたカレー方面でも80%前後、ノルマンディーに至っては計画の20%前後の進行率でしかなかった。ノルマンディーはドイツ軍の布陣が薄く、上陸は予想されなかった地点であったが、戦略的にはドイツの防御を混乱させ分散させる可能性を持つ攻撃地点であった。

「大西洋の壁」は連合軍の攻撃をはじき返すための強力な防御施設であるとされ「ドイツの背後を突こうとする連合軍を、大西洋に叩き返す」と、内外にプロパガンダされていた。それを現実のものにするため、ドイツが注いだ力は凄まじいものだった。フランス軍が独仏国境に構築したマジノ線要塞やドイツ軍が構築したジークフリート線要塞から、設備を取り外してまで建設を進めていた。

ロンメルは、41年から北アフリカにおり、大西洋の壁に関するプロパガンダを信じ「壁」はほとんど完成したものと思っていたが、ノルマンディー沿岸の防御施設を視察したあと、大西洋の壁の有効性に対する意見だけは、ロンメルとルントシュテットの間で完全に一致した。それは「敵よりも、むしろドイツ国民に対する宣伝用の記念碑的なこけおどし」であり、「大西洋の壁」はドイツ宣伝省によるプロパガンダに過ぎないという事であった。ロンメルは手に入る限りの資材・人員・武器・兵器を全て投入したが、その中でも地雷は最も多く投入され、ノルマンディー沿岸の全体に埋められたその数は約600万個以上であったという。

当然ドイツ軍も実際の上陸地点を知るため盛んに諜報活動を行っており、イギリス南部の広範囲にスパイ網を持っていたが、不運なことに連合国側に寝返った諜報員が多く、ほとんどの情報は上陸地点がパ・ド・カレーであることを確認するものであった。欺瞞は可能な限り続けられ、その地域のレーダーおよび軍事施設への攻撃は継続された。この作戦は徹底したものであり、ノルマンディーに1トンの爆弾を落とした場合はパ・ド・カレーに2トンの爆弾を落とすと言う具合

自由フランスのカリスマ的指導者であるシャルル・ド・ゴール将軍の強硬な態度を嫌っていたフランクリン・ルーズベルトはこの作戦に参加させないようにしたがっていたが、ウィンストン・チャーチルの説得で直前に知らせることにした。

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