溥儀(清朝のラストエンペラー)と美人妻の婉容


溥儀(1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、清朝第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日 - 1912年2月12日)、後に満洲国皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。1964年から中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員。

中華圏最後の皇帝であり、その生涯を題材にした映画から『ラストエンペラー』として知られる。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統帝と称された。清朝滅亡後に日本政府の支持のもと満洲国の執政に就任、満洲国の帝政移行後は皇帝に即位し、康徳帝と称した。満洲国の崩壊とともに退位し、赤軍の捕虜となった。その後中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所からの釈放後は一市民として北京植物園に勤務、晩年には中国人民政治協商会議全国委員に選出された。

溥儀、婉容、文繍の三人は紫禁城で平穏な生活を送る。1924年、北京政変による清室優待条件の破棄により紫禁城を追放され、各国からの保護も拒否される。大日本帝国のみが溥儀らへの支援を表明し、天津市の日本租界の張園へ移住する。中華民国国内における内戦(国共内戦)の影響は天津には大きく及ばず、また紫禁城を離れたことで因習に囚われることなく、現代風で自由な生活を送った。
婉容と溥儀

溥儀ら三人は日本租界宮島街の張園に仮寓し, 日本亡命を希望した。しかし当時の天津総領事・吉田茂の反対で、日本行きは実現しなかった。婚姻当時、皇妃二人は共に14歳。婉容は美貌に優れ、外交的で性格のいい気さくな皇后、文綉の容貌はどちらかと言えば平凡で、閉じこもって古典を読み、筆墨の世界に慰めを見出す内向的な妃であった。

1931年、満洲事変勃発後、溥儀が大日本帝国陸軍からの要請による満州国執政就任を承諾し、天津を脱出して満州へ移住。溥儀が皇帝に即位すると、婉容もまた皇后となるが、アヘン中毒と日本人嫌いのため、公式の場にはほとんど姿を見せなかった。溥儀の実弟溥傑の妻、嵯峨浩は、1937年秋頃の様子として、アヘン中毒の影響から婉容の食事の様子に異常な兆候があったと自伝に記している。

満州国時代末期に婉容の姿を見た者によると、彼女はボロ同然のすり切れた服をまとい、髪は乱れたまま、不健康な生活のため視力をほとんど失い、自力で立ち上がることすらできなかったという。ついには精神錯乱を来していたというが、溥儀は婉容に手をさしのべることもなく、むしろ離婚を考えたと言われる。

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