バベルの塔は、メソポタミア文明から伝説化したのではないかと考えられるようになってきています。旧約聖書の『創世記』に記されているバベルの塔は、バビロンにあったジッグラトが伝説化されたものと考えられています。
旧約聖書の『創世記』に記されているバベルの塔は、バビロンにあったジッグラトが伝説化されたものと考えられる。いくつかのジッグラトが発掘されており、最大規模の遺跡としてはエラム王国のチョガ・ザンビール遺跡(現イラン)の、比較的保存状態が良いものとしてはシュメール人都市国家のウル遺跡(現イラク)のものが挙げられます。
最古(紀元前604〜562年)とおもわれる「バベルの塔」の碑文(石に彫りつけられた文章)。 シェーンコレクションが所有する黒い石に刻まれた石碑は、2500年前に新バビロニアを支配したネブカドネザル2世と、ジッグラト(メソポタミア文明の聖塔)が描かれています。
メソポタミアで栄えたウル王国
メソポタミアにおいて、紀元前5000年頃に南部の都市エリドゥで都市の形成や神殿の建設がみられるようになる。やがてシュメール・アッカド時代と呼ばれる紀元前3000年期に都市の重要な展開がみられ、ジッグラトもこの頃に現れることとなる。最盛期のウルは計画経済が成立していたと考えられています。つまり、特権を持った少数のエリートが大勢の労働者を支配し、衣服や陶器などを作るために過酷な労働を強いていたというのだ。
ウルは、今は乾燥した平地だが、かつてはユーフラテス川沿いのにぎやかな港町で、運河が縦横に走り、たくさんの商船が行き交っていた。倉庫や織物工場で溢れる街の中心には、ジッグラトと呼ばれる階段状のピラミッド型聖塔がそびえていた。その一部は今でも残っている。
一帯が最も栄えたのは、アッカド帝国が衰退した後、ウルがメソポタミア南部を支配した紀元前2000年頃のことだった。広大な街には6万人を超える人々が暮らし、外国人居住区や、輸出用の毛織物や絨毯を生産する大規模な工場もあった。ウルのジッグラト(エ・テメン・ニグル)は紀元前2100年頃、ウル第三王朝のウル・ナンムが建造したとされている。規模は第一層が底面62.5m×43m、高さ11m、第二層が底面38.2m×26.4m、高さ5.7mで、最上部に月神ナンナを祀る神殿を載せていた。